
画像:島津義弘像 イメージ
戦国時代、九州に「鬼島津」と恐れられた猛将がいた。
島津四兄弟の次男、島津義弘(しまづ よしひろ)である。
彼は幾多の戦場において抜群の武勇を発揮し、その勇猛果敢な戦いぶりは敵味方を問わず畏敬の念を抱かせた。
今回は、薩摩・大隅(現在の鹿児島県)という日本列島の南端から出陣し、やがて朝鮮半島にまでその名を轟かせた島津義弘の生涯と戦歴を、あらためて振り返ってみたい。
九州の勇 島津家の次男

画像:島津義弘 public domain
島津義弘は、天文4年(1535年)7月23日、薩摩国伊作城(現在の鹿児島県日置市)で、島津貴久の次男として生まれた。
彼には兄の義久、弟の歳久・家久があり、後にこの四兄弟はそろって島津家の躍進に大きく貢献することになる。
義弘の幼少期、薩摩・大隅・日向の三州は分裂状態にあり、薩摩国の一部を父・貴久が、日向や出水周辺を分家の島津実久が掌握していた。なお、鉄砲が伝来した種子島もこの地域に含まれ、当時から外国との接触が比較的多い土地柄であった。
天文19年(1550年)、父・貴久が島津本宗家の第15代当主となると、薩摩・大隅・日向三州の統一を目指して本格的に動き出す。
義弘も兄・義久とともに出陣し、天文23年(1554年)の「岩剣城の戦い」で初陣を飾った。さらに、弘治3年(1557年)には大隅の蒲生氏を攻め、初めて首級を挙げる戦功を立てている。
永禄7年(1564年)には、義弘は日向国飯野城に入り、当時勢力を伸ばしていた伊東氏と対峙するようになる。
その後も伊東氏との戦いを重ね、天正5年(1577年)には遂に伊東義祐を日向から追い出すことに成功。
兄・義久のもと、島津家は薩摩・大隅・日向三州の制圧を達成し、南九州における覇権を確立するに至った。
秀吉の九州侵攻で追い詰められる島津家

画像 : 豊臣秀吉 public domain
三州統一を果たした島津家は、その勢いのまま九州全土の制圧へと乗り出す。
九州には当時、大友氏(豊後)や龍造寺氏(肥前)といった強大な戦国大名が割拠しており、覇権を巡る争いは激しさを増していた。まさに「九州三国志」ともいうべき情勢である。
天正6年(1578年)、島津軍は「耳川の戦い」において大友軍を撃破し、九州制覇への足がかりを築いた。
この戦いでは、家久をはじめとする島津諸将が巧みな伏兵戦術で大友軍を翻弄した。義弘も島津軍の中核を担う立場として、以後の九州進攻で重要な役割を果たしていくことになる。
さらに天正9年(1581年)には、肥後国水俣において相良氏と戦火を交え、勝利を収めた。
こうした島津軍の快進撃に対し、窮地に追い込まれた大友氏は、当時畿内を制圧しつつあった豊臣秀吉に援軍を要請する。この要請が、のちに九州平定へとつながる大規模な豊臣政権の介入を呼ぶことになる。
秀吉からの度重なる警告にもかかわらず、島津家は進軍を続けた。
兄・義久が本国で政治を掌握する一方、義弘はその名代として九州各地での戦いに従事し、戦線を指揮した。大分方面では弟・家久が大友氏の本拠・府内城を攻略し、島津家はまさに最盛期を迎えていた。
しかし天正14年(1586年)夏、ついに豊臣政権が動いた。
秀吉は弟・秀長とともに20万を超える大軍を動員して九州征伐を開始。秀長が東九州、秀吉が西九州から侵攻する形で、九州平定戦が本格化した。
すでに西日本を掌握していた秀吉の動員力は圧倒的であり、島津家は次第に劣勢へと追い込まれていく。
日向国根白坂での戦いでは、義弘自らが抜刀して奮戦したと伝えられるが、兵力差は如何ともしがたく、島津軍は敗退。
義弘は最後まで徹底抗戦を主張したが、当主である兄・義久の決断に従い、ついに降伏を受け入れた。
義弘は人質として自らの子・久保を差し出し、高野山の僧・木食応其の仲介により、豊臣政権との和睦が成立した。
島津を警戒する秀吉

画像:秀吉が九州国分を発表した筥崎宮 ※筆者撮影
九州制圧目前まで進軍していた島津家であったが、豊臣軍との戦いに敗れたことで、その領地は大幅に削減されることとなった。北部九州の地は、ほぼすべてが豊臣政権の諸将に分与され、島津家の支配領域は大きく後退した。
講和ののち、当主・義久には薩摩一国が安堵された。
一方、義弘には大隅国が与えられたが、その一部は伊集院忠棟の所領とされたため、完全な領有とは言いがたい状況であった。
このとき、秀吉は義弘に対して特別な待遇を施している。
兄・義久には「羽柴」の苗字のみを与えるにとどまったが、義弘には「羽柴」の苗字に加え、豊臣の本姓を許し、従五位下侍従にも叙任した。
これは、兄弟間に待遇の差を設け、内部対立を誘発させようとする秀吉の策略だったとも考えられている。
しかし、こうした試みにもかかわらず、島津四兄弟の絆は固く、義弘は兄・義久への忠誠を貫いた。
またこの頃、末弟の家久が死去しているが、豊臣家による暗殺説もある。
秀吉は、島津四兄弟を警戒していたのだ。
朝鮮出兵と歳久の死

画像 : 文禄の役(1592) public domain
天正20年(1592年)、秀吉は大陸制覇を目指して朝鮮出兵を命じた。いわゆる「文禄の役」である。
このとき、薩摩において実権を握っていた島津義久は病を理由に出陣を見送り、代わって弟・義弘が総勢約1万の兵を率いて朝鮮半島へ渡った。
義弘は、次男の久保および、甥にあたる豊久(末弟・家久の遺児)を伴っての出兵であった。しかし、義弘の本隊は諸将に比べて大幅に到着が遅れ、義弘自身も手紙の中で「日本一の大遅陣」と自嘲するほどであった。
朝鮮では「第二次晋州城の戦い」などに参加したものの、義弘にとって苦しい戦場となった。
なかでも、従軍していた次男・久保が現地で病に倒れ、命を落としたことは大きな痛手であった。
一方その頃、島津家の内政も揺れていた。
弟の歳久は、病を理由に文禄の役を辞退し、以前から豊臣政権に対しても頑なな態度を取り続けていた。秀吉からの信任も得られず、朱印状も与えられていなかった。
その後、歳久の家臣が秀吉の駕籠に矢を射かける事件が発生。これにより秀吉の怒りが頂点に達し、兄・義久は島津家の安泰を守るため、やむなく弟への討伐を決断した。
歳久はわずかな手勢を率いて抗戦した末、薩摩・帖佐の地で自刃した。享年五十六。
辞世には、無実を訴え、島津家の安泰を願う心情が綴られていたという。
この報せは、義弘が朝鮮に出陣している最中に届けられた。戦地にあって弟の死を知った義弘の胸中は、察するに余りある。
その後、慶長2年(1597)には第二次出兵「慶長の役」が始まる。
義弘は三男・忠恒や甥・豊久とともに朝鮮にわたると、「漆川梁(しっせんりょう)の戦い」において、藤堂高虎らの水軍と連携して敵将・元均を討ち取った。
陸軍として進行した島津家は数々の戦いに参加し、「泗川(しせん)の戦い」では2万6000の大軍を7000で打ち破ったという。

画像:李舜臣 public domain
そして慶長3年(1598)、「露梁(ろりょう)海戦」において、島津軍は藤堂高虎・脇坂安治らと共に明・朝鮮水軍と交戦し、朝鮮の英雄・李舜臣(り しゅんしん)を戦死させるに至った。
この戦果は、義弘の名を朝鮮半島全土に知らしめることとなり、敵将らからは「鬼石曼子(グイシーマンズ)=鬼島津」と呼ばれて恐れられた。
関ヶ原での島津の退き口

画像 : 関ヶ原古戦場 島津義弘陣跡 草の実堂編集部撮影
慶長3年(1598)、秀吉が没し、同年末には朝鮮出兵も終結した。
戦線を生き抜いた義弘は、その戦功をもって加増を受け、薩摩・大隅に加え日向諸県郡を与えられるという栄誉に浴した。
慶長4年(1599)には、兄・義久が隠居し、義弘の子・忠恒(後の家久)が島津本宗家の家督を継ぐこととなった。義久に男子がなかったためである。
しかし、家督を継いだ忠恒は、重臣・伊集院忠棟を粛清する。
忠棟は義弘の腹心であり、家中でも影響力を持っていた人物だった。忠恒との対立が表面化した末の誅殺であり、これをきっかけに伊集院一族が反発。「庄内の乱」と呼ばれる内紛に発展し、島津家は深刻な分裂状態に陥った。
その矢先、天下の情勢も大きく動いた。
慶長5年(1600)、徳川家康に対抗する石田三成が挙兵し、「関ヶ原の戦い」が勃発する。
義弘はこの時、薩摩本国に十分な兵力を集める余裕がなく、戦略的に不利な立場に置かれていた。やむなく、関西方面に滞在していたわずかな兵と、甥の豊久が率いる軍勢を合わせ、約1000人ほどの手勢で戦局に臨むこととなった。
島津家は西軍に属したが、義弘は独自の判断で行動し、関ヶ原の本戦において異例ともいえる存在感を示すことになる。
当初、義弘は徳川家に味方しようとしたが、伏見城で鳥居元忠に門前払いされ、不快感から石田三成の西軍に加わることを決めた。しかし義弘は三成の戦略に不信感を抱いており、提案もことごとく退けられていたため、協調体制にはほど遠い関係だった。
戦が始まると、島津軍は西軍左翼に布陣しながらも動かず静観。三成の援軍要請も、兵が少ないことを理由に拒否している。
西軍の敗走が始まると、義弘は退却を決断し、敵中突破を強行した。

画像 : 島津の退き口 ※戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ
いわゆる「島津の退き口」である。
福島正則の軍勢を避けて家康本陣を突っ切り、後衛が命を投げ打つ「捨て奸」で追撃を食い止めつつ、薩摩を目指して脱出した。
この退却戦で甥・島津豊久が戦死。
義弘は約1000人の軍勢のうち、わずか80人を率いて帰還した。まさに死地を突破した壮絶な撤退戦であった。
島津義弘の晩年

画像:『薩摩品津兵庫守義弘』 public domain
義弘が与した西軍が敗北したことで、島津家は存亡の危機に直面することとなった。
関ヶ原からの帰還後、義弘は薩摩に戻り、桜島に蟄居する身となる。一方、徳川家との交渉は兄・義久が担い、井伊直政の斡旋もあって、慶長6年(1601)、島津家は正式に許されることとなった。
その後、義弘は政治や軍務の表舞台から退き、隠居生活に入った。隠居後の義弘は、かつての猛将ぶりとは対照的に、茶を嗜み、穏やかな日々を過ごしていたことが、福島正則や子・忠恒に宛てた書簡から窺える。
元和5年(1619)7月21日、義弘は加治木でその生涯を閉じた。享年85。彼の死に際しては、13名の家臣が殉死したという。
おわりに
「鬼島津」と恐れられた島津義弘の生涯は、まさに戦いに彩られていた。数々の合戦を経て九州制覇に迫り、朝鮮の地ではその勇名を異国にまで轟かせた。
一方で義弘は、家族や家臣を深く思いやる人物でもあった。
一兵卒にまで心を配り、妻に宛てた書状には愛情あふれる言葉が綴られていたという(『加治木島津家文書』)。
その姿は、戦場での鬼神のごとき勇姿とはまた異なる、情に厚い人物像を伝えている。
いつの日か、義弘をはじめとする島津四兄弟の活躍が、映像作品などを通じて広く知られることを期待したい。
参考:「鬼島津」が残したもの〜文禄・慶長の役と島津義弘〜、加治木島津家文書
文 / 草の実堂編集部
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